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【コメント】キリシタン宣教師に奴隷として売り飛ばされた日本人の子供達を何故、日本は教科書に載せず学校で教えないのですか?

  • 豊臣秀吉や徳川家康でさえ、対外的には自国の民を守った。今の岸田内閣より余程国家意識があったと思える。日本国民を守らない岸田は一体何者なのか
  • 日本人奴隷貿易に激怒した秀吉のおかげで日本は植民地ならなかった
  • あの秀吉ですら、キリシタンを禁じた理由
  • 豊臣秀吉を悪者にしておきたい特定アジアの連中にとってこの真実は都合が悪いのでしょうね
  • 日本国のトップ達は偉大だったと改めて実感するとともに、今の国のトップ達はこの記事に出てくる領民を顧みないキリシタン大名そっくり
  • 今考えたらヨーロッパからの仏教活動って武器を使わない侵略行為だったんよね
  • 今の日本は秀吉不在でまるで無政府状態
  • なぜ教科書に載せないのか 被害者が日本人だから 秀吉が良い人だと都合の悪い教師ばかりだから
  • 馬鹿みたいに外国人を日本に入れてると、そのうち日本の子供がまた売り飛ばされるぞ。イエズス会に藩の農民の子供を奴隷として海外に売り飛ばしたキリシタン大名と、岸田政権て、同じことを始めているように見えるんだよ
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    【ソース】キリシタン大名によって、世界中に奴隷として人身売買された日本人は5万人 徳川家康、秀忠は全国に「禁教令(キリスト教禁止令)」を交付「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」そして日本は鎖国された

    ◇領民を奴隷として売ったキリシタン大名たち

    しかし、いつの世にも売国奴はいるもので、九州のキリシタン大名がそれです。たとえば、長崎港を開港した肥前国の大村純忠は、ポルトガル人から鉄砲や火薬など最新兵器の供与を受ける見返りとして、イエズス会の神父から洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となったのですが、武器弾薬を求めた動機は、お家騒動に勝利するためでした。

    その信仰は過激で、領民たちに改宗を強要し、拒否する仏教の僧侶や神官は殺害しました。さらに神社仏閣も破壊すると、その廃材をポルトガル船の建材用に提供したのです。先祖の墓も壊し、改宗に従わない領民を奴隷として海外に売り飛ばしました。武器購入の代価にされたのです。

    豊後の国の大友宗麟は、宿敵・毛利元就を撃退するために、火薬の原料である硝石の供給をイエズス会から受け、鉄砲戦によって毛利を破ると洗礼を受けてキリスト教徒となり、今度は十字架を掲げて日向国に攻め入りました。

    大友宗麟の野望は、日向国の全領民をキリスト教徒に改宗させ、ポルトガルの法律と制度を導入してキリスト教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くしました。

    島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信(大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、キリスト教徒となりました。

    軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40か所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出してしまいました。

    これらキリシタン大名によって、世界中に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどになると言われています。それを目撃したのが、大村純忠がキリシタン大名の名代としてローマに派遣した天正遣欧使節の少年たちでした。

    彼らは航海の途中、海外のさまざまな土地で、子どもまで含めた日本人男女が奴隷として使役されているのを見て、大きな衝撃を受けます。

    ちなみに、日本にいたポルトガル宣教師が奴隷売買の酷さを見かねて、当時のポルトガル王のドン・セバスチャンに進言した結果、1571年に「日本人奴隷の買い付け禁止令」も出されたのですが、奴隷売買はなくなりません。

    ポルトガルの奴隷商によって買われ、ブラジル・アルゼンチン・ペルーなどに売られた日本人奴隷の記録は、多くの公文書に残されています。

    ◇徳川家康が変えた日本の外交方針

    秀吉の死後、五大老による合議制が敷かれていた時期、筆頭大老だった徳川家康がもっていた外交観は、貿易と布教は分離できるというものだったようです。

    ポルトガルとの貿易によって大きな利益を得ている長崎や九州を見て、貿易を優先すべきと考えていた家康は、当初、キリスト教に対して寛大な姿勢で臨んでいたのですが、やがて「スペイン・ポルトガルはキリスト教布教と同時に日本を武力により支配しようとしている」との情報を得て、外交方針を変えていきます。

    スペインは、信者を増やして日本を支配したあとは、日本を拠点として明に攻め入り、いずれは明も征服しようという長期計画を持っていました。

    家康は、1612年には天領(幕府直轄地)に、翌1613年には全国に「禁教令(キリスト教禁止令)」を将軍秀忠の名で交付させます。「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」と激しく糾弾する内容でした。

    ここに鎖国体制が始まり、キリスト教禁止令はその後、じつに1873年(明治6年)まで続いたのです。

    1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史(WANI BOOKS NewsCrunch) – Yahoo!ニュース
    15~16世紀、当時の日本がアフリカや中南米諸国のように国を滅ぼされず、今日まで独自の文化・伝統を保持できた背景には軍事力、そして徳川家康の外交方針の転換があった。しかし、その期間に奴隷として売り飛

    徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日) : ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)
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    投稿 キリシタン大名によって、世界中に奴隷として人身売買された日本人は5万人 徳川家康、秀忠は全国に「禁教令(キリスト教禁止令)」を交付「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」そして日本は鎖国されたNewsSharing に最初に表示されました。