以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「The majority of censorship is self-censorship」という記事を翻訳したものである。
私は多くの博識者を知っているが、エイダ・パーマーは別格だ。優れたSF作家であり、優れた歴史家であり、優れた脚本家であり、優れた歌手であり……。
– https://pluralistic.net/2022/02/10/monopoly-begets-monopoly/#terra-ignota
パーマーは友人であり同僚だ。2018年、彼女とエイドリアン・ジョーンズ、そして私は、シカゴ大学歴史学部(エイダは宗教裁判とルネサンス期の禁忌の知識を専門とするテニュア教授)で「印刷機からインターネットまでの検閲、情報統制、情報革命」という大学院セミナーを共同で行った。
このプロジェクトは、エイダと私がSF大会でよく遊んでいたパーティゲームから始まった。エイダが宗教裁判所の検閲官が印刷機をどのように攻撃したかを説明し、私は政府、エンターテインメント産業、あるいはもっと最近のインターネット検閲の戦いの歴史から、極めて類似した作戦を見つける。
セミナーは、そこからさらにレベルアップした。各3時間のセッションでは、暗号化の仕組みから、ベトナムで過激化した白人国家主義者が装甲車強盗団を結成し、全米のネオナチをつなぐモデムとApple ][+の資金を調達した方法まで、多くの分野の講演者が登壇した。
これらのセッション構成はSF大会から借用した。必ずしもうまくいくとは限らないがうまくいくと素晴らしい、非常に特殊なパネルディスカッションの本拠地がSF大会だ。エイダと私がSFを通じて知り合ったのも自然なことだった。
SFファンでなくても、SF界で最も権威のあるヒューゴー賞のことは耳にしたことがあるだろう。ヒューゴー賞は、毎年開催される世界SF大会(ワールドコン:Worldcon)の参加者の投票で選ばれる。SFファンでなくても、ヒューゴー賞に関するスキャンダルを耳にしたかもしれない。昨年、初めて中国で開催されたのだ。
– https://www.nbcnews.com/news/world/science-fiction-authors-excluded-hugo-awards-china-rcna139134
背景を少し説明しよう。ワールドコンは毎年、ボランティアの委員会が運営している。このボランティアたちは、世界大会の開催候補地をまとめ、世界大会の参加者に投票を呼びかける。何年もの間、中国のファングループは世界大会の招致に挑戦し、ようやく自国開催にこぎつけた。
当時、検閲で悪名高く人権状況の悪い国への渡航は不安だとか、ワールドコンの常連参加者のビザ取得に懸念があるという声が相次いだ。一方、世界中のファンたちからは、そうは言っても(ワールドコン発足以来、大多数のワールドコンが開催されてきた)米国だって人権状況は悪いし、大会参加のために米国のビザを取ろうにも嫌になるほど厄介な手続きを強いられたことが指摘された。
この議論のどちら側に着くにしても、中国のワールドコン開催が多くの警鐘を鳴らしたことは否定できない。コミュニケーションはまばらで、大会は予定されていた日程から数ヶ月遅れ、明確な説明もなく唐突に変更された。中国の小役人たちが大会の運営に入り込んでいるという噂も流れた。
しかし、本当の警鐘が鳴り始めたのは、ヒューゴー賞の授賞式後だった。通常、ヒューゴー賞授与後に、出席者にはノミネートと投票の集計結果を記した紙が配られ、その数字は同時にオンラインでも公開される。厳密に言えば、ヒューゴー委員会にはこのデータを公開するまでに数週間の猶予期間があるのだが、私が過去30年以上にわたって参加したすべてのワールドコンで、私はこのデータシートを手に授賞式会場を後にしている。
そして12月上旬、ギリギリのタイミングでヒューゴー委員会がデータを公開し、大騒ぎになった。高評価を受けていた多数の作品が一方的に「不適格」とされていたのだ。その多くは中国系(Chinese diaspora)の作家が書いた作品だったが、ニール・ゲイマンのサンドマンのエピソードのように、国との関連性が見られない作品もあった。
読者や作家たちは憤慨し、説明を求めた。ヒューゴー賞の運営者(長年、その役割をボランティアとして務め、コミュニティの善良なメンバーとして一目置かれていた米国人とカナダ人)は沈黙を守るか、無礼で侮辱的な発言で応じた。彼らがしなかったのは、自分たちの行動を説明することだった。
事実がないことで、噂や憶測が駆け巡った。中国当局による検閲の話がオンラインを飛び交い、それとともに「ほれ見たことか」という反応が広がった。中国は決してワールドコンの開催国になるべきではなかった、この国の権威主義的な国家政治は文学の祭典とは根本的に相容れないのだ、と。
怒りがヒートアップし、スキャンダルがSFファンや作家を超えて拡散するにつれ、さらなる詳細が明らかになった。内部リークから、投票用紙の検閲を決めたのは長年のボランティアである米国人とカナダ人だったことが明らかになったのだ。彼らは、政治的に好ましくない作品がヒューゴー賞の候補になった場合、中国政府が大会に何らかの制裁を加えるのではないかという漠然とした感覚から、そうしたのだ。信じられないことに、彼らは候補者に関する拙い調査票を作成し、ある候補者はかつてチベットを訪れたという誤った思い込みから不適格とされた(実際にはネパールだったのだが)。
中国政府からの要請があったという証拠はない。同様に、「候補」作品リストへの投票だと信じていた数百の中国のファンの投票が捨てられたのも、中国政府からの圧力ではなかった。(そうだったかどうかは定かではないが、リスト投票はヒューゴー賞の規則で認められている)。
こうしたことから、ヒューゴー賞の将来と中国で与えられた賞の位置づけについて多くの疑問が投げかけられている。このような悪だくみによって引き起こされたネガティブな報道のせいで、大会に関与した中国のファンが国家からの報復に遭うのではないかという懸念も広がっている。
と同時に、検閲と、国家による検閲と民間による検閲の性質、そしてその両者の関係についても多くの疑問が生じている。こうした疑問は、まさにエイダが適切に答えられる問題であり、実際、彼女の執筆中の『なぜ我々は検閲するのか:宗教裁判からインターネットまで(Why We Censor: from the Inquisition to the Internet)』のテーマでもある。
Reactorに寄せた大作エッセイの中で、エイダは自身の中心的な主張を展開している。
「ほとんどの検閲は自己検閲だが、大部分の自己検閲は外部の権力によって意図的に培われたものである」
– https://reactormag.com/tools-for-thinking-about-censorship/
国家は、たとえ非常に強力な国家であろうと、『1984年』に描かれたような全体主義的な検閲を行うための資源を持ち合わせてはいない。家々を回って、禁書のコピーを隅々まで探すことはできないのだ。アイデアを殺す唯一の方法は、人々がそれを表現するのを最初からやめさせることだ。自己検閲をさせることは、「検閲体制に行える他のあらゆることよりも、費用対効果が高く、影響力が大きい」のである。
エイダは、現代と古代の例を引用し、彼女自身の専門分野である宗教裁判とガリレオの扱いについても言及している。宗教裁判所は、ガリレオを沈黙させることが目的ではなかった。それが目的だったなら、彼を暗殺すればよかったはずだ。安上がりで簡単で確実な方法なのだから。だがそうはせず、宗教裁判所はガリレオをこれみよがしに迫害した。そして、彼と彼のアイデアは広く知られるところとなった。
だが、これは宗教裁判所がストライサンド効果の初期の例になったという話ではない。ガリレオを迫害した目的は、デカルトに自己検閲をさせるためだった。実際、彼はそうした。彼は出版社から原稿を引き上げ、宗教裁判所が不快に思いそうな箇所を削除した。デカルトだけではない。「当時の数千の主要な思想家たちは、ガリレオ裁判の後に自己検閲を行い、書き換え、言い換え、プロジェクトの選択を変えて、次の世紀に(訳注:当初伝えたかったものとは)異なるアイデアを伝えた」のだ。
これは直接的な自己検閲だった。人々は怖れから自らを沈黙させたのだ。しかし、もう一つの形態の検閲がある。エイダはそれを「仲介者検閲(middlemen censorship)」と呼ぶ。政府以外の誰かが、そうしなかった場合に政府が何をするかを恐れて作品を検閲することだ。出版社のScholasticが、LGBTQに関するインクルーシブな本をブックフェアのラインナップから取り除くという臆病な決定をしたことを考えてみよう。誰もそうするよう命じていなかったのに。
– https://www.nytimes.com/2023/05/06/books/scholastic-book-racism-maggie-tokuda-hall.html
これは検閲のアウトソーシングの一形態であり、「検閲システムのマンパワーを、その権力の及ぶ個人の数で倍増させ」ているのである。検閲機関は、不愉快な本を探すために家々を捜索する検閲官を雇う必要はない。編集者、出版社、流通業者、書店、図書館員を怯えさせれば、最初から本を抑圧させることができるのだ。
このアウトソーシングにより、国家の検閲と民間の監視の境界線が曖昧になる。コミックスについて考えてみよう。感受性の強い若者の心にコミックスが及ぼす危険性について、注目を集めた議会公聴会の後、コミックス業界は自主規制に乗り出した。コミックス倫理規定管理委員会(CCA:Comics Code Authority)が、コミックスに「危険な」内容がないかを審査し、表紙にお墨付きのスタンプを押すようになったのだ。その後、流通業者や小売業者がCCAのスタンプのない本の取り扱いを拒否しだしたことで、出版社はCCAのスタンプを得られない本の出版を取りやめた。
CCAは、説明責任がなく、気まぐれで、そして人種差別的だった。60年代から70年代にかけて、黒人キャラクターを扱ったコミックスは、白人ヒーローを描いたコミックスよりもはるかに厳しい審査を受けていたことが明らかになっている。CCAは、「黒人宇宙飛行士の額の汗の滴が『血に間違えられるかもしれ』ず『生々しすぎる』として却下した」のだ。CCAから突き返されると、作家やイラストレーターは検閲を通過させるために過酷な修正作業を強いられることになった。
米国政府がブラックパンサーのようなヒーローを検閲したことは一度もないが、CCAのような「仲介者検閲」を生み出した一連の出来事は、マーベルの最も著名な黒人キャラクターの主役を務める作品にブラックパンサーが登場する機会を大幅に減らした。民間の検閲と公的な検閲の間に線を引こうとする検閲の分析では、ブラックパンサーが無名の存在に追いやられたことに政府は一切関与していないと言うだろう。しかし、議会の行動がなければ、ブラックパンサーが検閲に直面することはなかったはずだ。
だからこそ、公的検閲と私的検閲を明確に分けようとする試みは常に破綻する。多くの人々が、TwitterやFacebookが自分たちの意に沿わないコンテンツをブロックすることは検閲ではないと言う。検閲は政府がすることであり民間企業には当てはまらない、TwitterやFacebookの検閲は修正第1条に違反しないのだと言いたいのだろう。だが、合衆国憲法に違反せずに言論の自由を侵害することはまったくもって可能だ。さらに言えば、政府が私たちの言論の場であるソーシャルメディアの独占を防げず、また修正第1条を尊重する公的言論の場を自ら提供しないのであれば、政府はその選択(訳注:的な不作為や怠慢)によって、インターネットのどこにいようと特定の思想が抑圧される環境を生み出せる。すべて憲法に違反することなくだ。
– https://locusmag.com/2020/01/cory-doctorow-inaction-is-a-form-of-action/
ソ連や宗教裁判所のような過去の偉大な検閲体制は、膨大な官僚の記録を残したが、これらの記録には検閲官たちのリソース不足に対する不満が満ち溢れている。彼らは、抑圧するよう命じられたアイデアを消し去るのに十分な人員、オフィス、資金、権限を与えられていなかったのだ。エイダが指摘するように、「スペインの宗教裁判所がローマの支配を大きく外れていた時期には、ローマの宗教裁判所でさえ、スペインが何をしているのかを把握しているように見せかけるハッタリマニュアルを印刷していた!」のだ。
検閲官たちはこれまでも、そして今でも、権力を振るうことによってではなく、権力を誇示することで仕事をしてきた。最も強力な国家権力者でさえ、あるアイデアを表現したすべての作品を没収し、それを作った全ての人を罰するような、真の検閲を行えるほどの力はない。だからこそ、彼らは個人と仲介者による自己検閲に頼ってきたのだ。検閲官がある作品は検閲したのに(訳注:同じような)別の作品は検閲しなかったり、ある違反者を罰したのに別の違反者を自由に語らせているのを見ると、何らかの複雑なルールに従って法を執行しているのだと思えるかもしれない。しかし実際には、彼らが社会全体を検閲するには力が足りないから、不規則に検閲しているだけなのだ。
派手な検閲や処罰は、「人々の行動や考え方を変えるための」パフォーマンスである。検閲官は、「最小限のコストと人員で、最大限の人々に気づいてもらい、存在感を感じさせることのできる行動を求める」のだ。
検閲は、私たちに検閲官の仕事を代行させることでしか成功しない。だからこそ、国家による検閲と民間による検閲の間に線を引くのはとてもミスリーディングだ。今までも、そして今でも、検閲は官民のパートナーシップなのである。
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: February 22, 2024
Translation: heatwave_p2p
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