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以下の文章は、電子フロンティア財団の「Speaking Freely: Ethan Zuckerman」という記事を翻訳したものである。

Electronic Frontier Foundation

インタビュアー:ジリアン・ヨーク

イーサン・ザッカーマンはマサチューセッツ大学アマースト校の教授で、公共政策、コミュニケーション、情報学を担当している。彼は現在、Institute for Digital Public Infrastructureという新しい研究センターの立ち上げを進めている。長年にわたり、彼はテックスタートアップ(Tripod.com)や非営利団体の創設者(Geekcorps.org)、共同創設者(Globalvoices.org)として活動し、その間一貫してブロガーでもあった。

※ このインタビューは、長さと明瞭さのために編集された。

ヨーク:あなたにとって、表現の自由や言論の自由とは何を意味しますか?

とても複雑な質問ですね。一見すごく簡単そうに見えて、考え出すとすぐに複雑になってしまう。表現の自由というのは、人々が考えていること、感じていること、信じていることを知りたい、それをできるだけ自由に発言してもらいたい、という考え方だと思います。でも同時に、ある人の発言が、別の人の言えること、あるいは言いやすいと感じることに影響を与えてしまうこともありますよね。表現の自由を素朴に「私はいつでも好きなことを言うぞ」というふうに考えることもできますが、それでは私たちがコミュニティの中にいるという事実をうまく反映できない。私がどう言うかで、別の人が発言できなくなるかもしれない、ということを捉えきれていないんです。

表現の自由は表面的にはすごくシンプルに見えるかもしれません。人々が言いたいことを言える空間を作りたい、どんなに不快なことでも自分の真実を語れるようにしたい。でもそこからもう一歩踏み込んでみると、ああ、わかった、自分のやろうとしていることは、ある人たちには発言できる空間を作るけど、別の人たちには発言できない空間を作ることになるんだな、と気づき始める。それから、多様な空間をどうやって作るか、それらの空間がどのように相互作用するかを考え始めるわけです。そういう意味で、複雑な質問ですね。最初のアプローチはすごくシンプルなのに、少し踏み込んでみると信じられないほど複雑になってしまう。

ヨーク:その複雑さを掘り下げてみましょう。あなたとは2008年ごろに知り合いました。その頃に比べるとオンライン環境は劇的に変わりました。当時、私たちは国境を越えて、共通点を超えて人々をつなぐインターネットの力に期待していました。それ以降にもたらされた変化の中で、オンライン上の表現の自由を維持しつつ、デメリットや弊害にどう対処すべきだと思いますか?

まず、あなたと出会った当時の状況から始めましょうか。あなたには、初期のGlobal Voices(訳注:世界中の市民メディアをつなぐ国際ネットワーク。英語版日本語版)に深く関わってもらいましたね。私はレベッカ・マッキノンや素晴らしい仲間たちと一緒に、ほとんど触れることのない声を増幅するために、このオンラインコミュニティを立ち上げました。私は、テクノロジーを用いて、ほとんどの人が行ったことのない地域、ニュースでも注目されない地域から上がる声をどうやって増幅できるかを考えることにキャリアの大部分を費やしてきました。2000年代初め、レベッカと私は、ブログや新しいテクノロジーを駆使して、いま起こっていることを報告する手法に興味を持ったんです。私は、サハラ以南のアフリカ、レベッカは北朝鮮などに興味を持っていて、そういった地域で何が起きているのかを、たとえばその地域に訪れる中国人ビジネスマンの視点を通じて理解しようとしたんです。

そして私たちは、当時米国の攻撃下にあったイラクでブログを書くブロガーたちに出会いました。マダガスカルのような国々にもブロガーがいて。政治的にはさまざまな動きが起こっているのに、ほとんど誰もそのことを知らないし、耳にする機会もない。こうした声をどうやって増幅できるか、自由に発言してもらい、聴衆を見つけるにはどうすればよいか、という文脈で、あなたと一緒に仕事するようになったわけですね。聴衆を見つけるというのは興味深い問題です。匿名でオニオンサイトなどに投稿すれば自由に発言できますけど、誰もあなたの声を聞いてくれない。だから自由に発言できるようにするだけでなく、聴衆を見つけられるようにするにはどうしたらいいのか。あなたと初めて会った頃、私はWordPressとTorを使った匿名ブログにも取り組んでいて、閉鎖的な社会で内部告発をする人たちがオンラインで発言できるようにするガイドを作ったりもしていました。

ハーバード大学のバークマン・センターでも、一緒に検閲の問題に取り組みましたね。私が注目しているのは、歴史を振り返ってみて、検閲がオンライン上でどのように変化してきたか、誰が言論の抑圧に関わってきたか、という点です。当初は、サウジアラビアやチュニジア、中国などの政府が国家レベルで特定言論を遮断するというような検閲を考えていました。「これは言っちゃダメだ。言ったら削除されるか、最悪逮捕されることになるぞ」というふうにね。その後、私たちは企業や プラットフォームによる検閲への懸念にもフォーカスしていきました。あなたはこの問題に深く関わっていますよね。女性の乳首問題とかで、Facebook、いまのMetaとバチバチに戦ったり。企業がユーザの考えとはまったく無関係に、プラットフォーム側の基準に基づいて、何が許容される言論で何が許容されない言論かを決めてしまっているわけです。

2010年代後半のどこかで、戦場が少し変わったように思います。今でも国家やプラットフォームがインターネットを検閲していて、どちらも以前よりずっとうまく検閲している。(訳注:ただ、それらとは別の抑圧が)本格的に始まったのがゲーマーゲート事件だと思っていて。ゲーム業界の批評家として、ビデオゲームにおけるフェミニストのカウンターナラティブについて語る女性たちに、オンラインコミュニティの一部のメンバーから非常に敵対的で、攻撃的な反応がありました。アニータ・サーキージアンを始めとする、この分野のリーダーたちに激しい女性嫌悪的な暴言が浴びせかけられたんです。これはもう、言論を黙らせるためのもう1つの形態なんですよ。いまや、発言への報復は極めて深刻なものになっています。たとえばスワッティング(swatting|訳注:警察にウソの通報をして、黙らせたい相手の自宅に警察特殊部隊を送り込む嫌がらせ)されたり、アニータのように、発言者を殴りつけるゲームをリリースされたりする。グレートファイアウォールやブログの削除のような(訳注:直接的な)黙らせ方ではありません。でも発言がもたらす結果があまりにも大きくなってしまって、言論環境が一変してしまったのです。これがとても厄介なのは、言論を沈黙させるために言論を用いる人の中には、自分たちの言論の自由の権利について語り、自分たちの発言が言論の自由に保護されていると主張する人がいることです。ある意味では、彼らは正しい。でも別の意味では、彼らは非常に間違っている。彼らは言論を使って、他者の言論の結果をおそろしいものにし、ある種の言論を非常に難しくしているのです。

それは、わかりやすい敵ではありません。サウジや中国に怒りを覚えるのは簡単だし、Facebookなんかのプラットフォームに腹を立てるのもわかりやすい。でも、いったん「あなたの言論の自由の理解は、他者の発言を非常に困難にする、あるいは非常に危険にする環境を作り出している」という点に到達すると、とてつもなく複雑になりますよね。つまり、私はオンラインでの言論の確固たる支持者から、この複雑で多層的な考えに変わっていったんです。なので、この質問への答えは、「考えるべきことはとんでもなくたくさんある」という感じでしょうか。

ヨーク:それについて少し掘り下げてみましょう。私にとっても複雑な問題だからです。ここ数年、私の見方も変わってきました。でも今も、アフリカ大陸中でLGBTQ+の言論を封じる法案が提出され、サウジアラビアはいつもの調子で(訳注:たとえば2023年には平和的な政府批判ツイートを理由に男性に死刑判決がくだされた)、スーダンはインターネットを再び遮断し、イスラエルはパレスチナでインターネットを遮断し続けていて、イランでも何らかの遮断が続いているなど、事例を挙げればきりがないありません。米国でも、子どもオンライン安全法案(Kids Online Safety Act:KOSA)のように、多くの人々の表現の自由を必ず損ねることになる提案がなされています。米国ではさらに、中絶に関する言論も萎縮している。このような例を考えると、私たちが互いに言論を抑圧・検閲してしまう問題と、私たちが直面する現実的で継続的な言論の脅威とをどのように区別したらよいのでしょうか?

イーサン:この状況にかかわる主体には、それぞれ異なるレベルの力があるという指摘は有益だと思います。子どもオンライン安全法案(KOSA)を例に取りましょう。この法律には、禁止される言論を各州の州司法長官に委ねてしまうという深刻な危険性があります。そして米国の(訳注:一部の)州司法長官たちは、「トランスジェンダリズム」、あるいは彼らが「LGBTQアジェンダ」とみなすものと戦うために、これを行使すると言っています。ですが、ほとんどの人は、私たちにはありのままの自分を表現する権利があると考えていて、ある州が「18歳未満の子どもにアクセス可能なコンテンツを検閲する」と言い出したとしても――実際に言い出しているんですが――現在のイカれた米国最高裁ですら違憲だと判断するでしょう。

国家による検閲からプラットフォームによる検閲、そして個人による検閲への進展について話してきましたが、それぞれが持つ力は異なります。国家は銃を持っていて、あなたを逮捕できます。Facebookにもできることはたくさんありますが、今のところ、あなたを逮捕することはできません。Facebookはオンライン環境の大部分に絶大な力を持っている。だからその力に責任を負わせなければなりません。ただ、この話は常に「または(or)」ではなく、「かつ(and)」でなければなりません(訳注:小規模な事業者に不釣り合いな重責を負わせるべきではない、ということを意味していると思われる)。

同時に、国家の権力やプラットフォームの権力を深く懸念するのと同じように、言論環境の変化によって、人々が参加すること、あるいは参加しないことがとてつもなく難しくなる可能性があることも認識されなければなりません。その一つの例が、多くの面で、イーロン・マスク率いるTwitterの変質でしょう。技術的な変更だけでなく、モデレーションの変更によって、Twitterは多くの人にとって安全な空間ではなくなりました。「言論の自由」の名のもとにハラスメントや脅迫が横行し、プラットフォームに居づらくなるような環境が生まれている。インド出身のムスリム女性であればなおさらです。これは、友人で学生のイファット・ガジアと一緒に取り組んできた問題です。カシミールの女性たちは、Twitter上でヒンドゥー至上主義者の集団から攻撃を受けていて、彼女たちにとって「発言すること」はとてつもなく危険で恐ろしいものになっている。彼女たちが何か言おうものなら、女性蔑視のトロールたちが襲いかかり、彼女たちをプラットフォームから追放しようとしてくるわけです。つまり、ヒンドゥー至上主義者の言論の自由が保障された環境は、カシミールの独立や、インドにおけるムスリムの平等を訴える人たちにはあまりに危険な環境になってしまう。そうして、国家なりプラットフォームなりに、公平な場を作るのを助けてほしい、誰もが発言できる空間を作るのを助けてほしいと泣きつくようになるわけですが、その国家やプラットフォームも突然「これは言っていい、これは言っちゃダメ」と言い始める。だからこそ、あっという間に複雑になってしまうんです。

ヨーク:匿名の言論については、世界中で多くの課題があります。たとえば、英国のオンライン安全法ですね。この法律は匿名の言論についても少し踏み込んでいます。また、私たちは2人とも、オンライン上の弱い立場のコミュニティを守るために匿名性が重要だと書いてきました。この数年間で、匿名性や偽名性に対するあなたの見方は変わりましたか?

黎明期のブログで面白かったのは、内部告発者が出てきたことです。政府内部の情報を持つ人たちが、自分の国や州で起きていることを伝える方法を手に入れた、というわけです。ウィキリークスの台頭にもつながっていくと思うんですが、当時は匿名性は真実の証のように捉えられていたフシがあって。匿名でなければならないのは、真実に近すぎるからかもしれない、という感じでね。そうして多くの人がリークを真剣に受け止めた。これはリークだ、非公式の物語だ、注意を払うべきだ、と考えるようになったんです。メディア環境の変化に伴って、情報のリークや匿名性の保護という概念も、ある種武器化されていったようにも思います。ウィキリークス自体が複雑なナラティブをはらんでいて、当初はケニア政府の内部文書のようなインサイダー情報をリークしていたのが、“この中のどこかに重要な何かがあるはずだ”という考えに基づいて莫大な文書群をリークするようになった。多くの場合、確かにそこには何かがあったんですが、無数のカスも含まれていましたよね。そうして、リークは戦略として使われるようになりました。今では、ある文書に注目してもらいたいなら、大々的に「リークするぞ」と言えばよくなってしまいましたね。

同時に、匿名性を武器にする人も出てきました。有名なのは、「ダマスカスのゲイ・ガール(Gay Girl in Damascus)」ですね。自分を保守的なコミュニティ(訳注:シリア)に住むレズビアンだと称する人物が、そこでの経験を匿名で伝えていたんですが、実際にはスコットランド出身の中年男性だった。話を聞いてもらうために、アイデンティティを偽っていたことが判明したんです。みんな知っているように、白人の中年男性がオンラインの対話で発言権を持つことはほとんどありません。だから彼は、シリア人のレズビアン女性になりすますことで話を聞いてもらおうとした。その状況を解明する過程で分かった本当に興味深い点は、彼が別のなりすましレズビアンと交際していたということです。そのフェイクレズビアンも、オンラインで声を上げるためにレズビアンになりすましていた別の男性だったんです。そうして、「匿名だから、おそらくすごく強力な情報源だろう」というとてもナイーブな見方から、「匿名だから、たぶんまたトロールだろう」という見方に変わっていきました。

正解は、匿名性はとても複雑だということだと思います。匿名性を本当に必要としている人もいる。だから自由に発言できるようにすることは本当に重要です。でも内部告発者と一緒に働いたことがある人ならみなさんご承知でしょうが、自分の名前を名乗ったほうが、その発言はもっと大きな力を持つようになる。それでも、匿名性は依然として重要ですし、それを守り、保護する方法を見つけなければならない。同時に、マーク・ザッカーバーグの「匿名性をなくせばウェブは素晴らしいものになる」というアイデアが完全なデタラメだと分かってきています。永続的な偽名や匿名性を貫いていても、健全なコミュニティを維持している例はたくさんあります。匿名性は、そのコミュニティのスペースや規範に関係しています。でも匿名性は、内部告発を安全にする万能の解決策でもないし、「匿名性を許容すればコミュニティは崩壊する」というものでもない。他の問題と同じように、結局のところ複雑で微妙な問題だということが分かってきました。なので、匿名性は私たちが考える以上に重要であるし、重要ではないんでしょうね。

ヨーク:表現の自由に対するあなたの考えを形成した初期の経験について教えてください。

ここで話したいのは、ハオ・ウーの話です。オンラインでの表現の自由について考える時、いつも彼のことを思い出します。ハオ・ウーはドキュメンタリー映画監督です。いまでは著名なドキュメンタリー映画監督の1人ですね。中国のライブストリーミングを扱った『デジタル人民共和国(The People’s Republic of Desire)』など、大変高く評価された作品をいくつか手がけています。最近も、武漢のロックダウンを描いた『76 Days』を公開しています。でも、彼のことは間接的に知りました。彼は中国で地下キリスト教会の現象を取り上げた映画を撮っていたんですが、逮捕されて5ヶ月間拘束されていました。彼は熱心なブロガーでしたから、彼のことはGlobal Voicesのコミュニティを通じて知っていました。私たちは彼の仕事を注目していたんですよ。でも、その彼が突然沈黙してしまった。

最終的に、中国語を話せるレベッカ・マッキノンと一緒に動くことになりました。レベッカが関係者全員と連絡を取り、私がウェブサイトを担当して。「Free Hao Wu」というブログを作って、彼の姉に、彼の釈放を求める活動の場にしようとしました。この件で非常に興味深かったのは、レベッカと私は何ヶ月も何が起きているのかを書いたり話したりしてたんですが、彼の姉にも声を上げるよう促してみたら、彼女は自分の人生やキャリア、家族への影響をとても恐れていたんです。その後、彼女はオンラインで発信する意思を示してくれたんですが、その経験から、自分にとってはとても単純で簡単に感じることが、別の政治情勢にいる人にとっては、そうではないということに気づいたんです。「ほら、この若者は映画監督でブロガーで、頭の切れる面白い人だ。もちろん彼は自由に発言できるべきだし、当然私たちは彼の釈放を求めて活動するよ」という発言は、私たちには簡単です。でも彼の家族と話をして、彼の姉が抱いていた本当の恐怖――つまり、弟の釈放を求めるというシンプルなことを主張しただけで、彼女の人生が完全に、しかも悪い方向に一変してしまうかもしれないという恐怖――を目の当たりにしたんです。

私たちの共通の友人にアラー・アブドゥル・ファッターハがいますね。彼は成人してからの大半をエジプトの刑務所で過ごし、何度も何度も拘留されてきました。彼の家族や元パートナー、多くの友人は、何年も何年も何年も彼のために活動してきました。誰かが発言する権利、政治的な行動を起こす権利、芸術を創る権利を擁護するというこのプロセス全体は、その状況に近ければ近いほど、難しくなっていきます。その状況に近づけば近づくほど、覆そうとしている不正義が自分自身にも向いてくるのですから。遠く離れた場所で声を上げるのは簡単ですが、近ければ近いほど声を上げることはとても難しい。地球の裏側で上がった声を耳にしたなら、このことを考える良い機会だと思います。声を上げている人たちは直接的な影響を受けている人たちなのだろうか? 彼らは危険が差し迫っているから声を上げているのだろうか? あるいは、私たちは何か誤解をしていて、一見自明で正しい主張をしているように見えるが、実際には私たちが考える以上に複雑なのではないか?と。

ヨーク:あなたの研究室では、プルリヴァース(pluriverse)というものを提唱しています。つまり、大手プラットフォームは今後も存続し、人々はそれらを使い続けると認識しているわけですが、分散型のプラットフォームが続々と登場している中で、プラットフォームでのモデレーションの未来をどのように見ていますか?

最近は外に出て、インターネットのプルリヴァース・ビジョンを提言することに多くの時間を費やしています。非常に具体的なテーマを持った小さなインターネットコミュニティの立ち上げと、非常に幅広い体験を可能にするアーキテクチャの考案の両輪で進めています。その過程で学んだのは、小さなプラットフォームは、思った以上に制限的なルールを定めていることが多くて、しかもそれが良い結果に繋がっているということです。具体的な例を挙げましょう。

私は大柄な人間です。久しぶりに300ポンド(約136kg)を切りました。でも長い間、成人してからずっと、290〜310ポンドの間を行ったり来たりしていました。それで約半年前からランニングを始めました。380ポンド(約172kg)で初めてのマラソン大会に出場したマーティナス・エヴァンスという男性に触発されたんです。彼はスロウAFランニングクラブというランニングクラブを設立したんですが、そこには非常に活発なオンラインコミュニティがあって、どんな体型の人にもフィットネスとランニングを提唱している。今では、週に3〜4回はこのグループにログインして、ランニングの記録を取ったり、励まされています。このコミュニティに参加するには、まずエッセイを書かなきゃいけない。それに、体重の話をしてはいけない、減量の話をしてはいけない、体型の話をしてはいけない、とかたくさんの禁止ルールに同意しないといけない。そう聞くと、「言論の自由はどうした!表現の自由はどうした!」と言われるかもしれませんが、このコミュニティのメンバーになるために、一旦それは脇に置くことにしたんです。減量や体型などについて話したいと思ったら、プルリヴァースであれば他の場所でできるんですから! この健康的なオンラインコミュニティの一員になって、たくさんのサポートを受けるためには、そこのルールに同意して、ある種のものを箱にしまわなければならない。

これを「小さな部屋」と呼んでいます。小さな部屋には目的があって、コミュニティがあって、時に厳格な発言制限もある。でもそのおかげで、特定の(訳注:コミュニティの目的に沿った)会話が促されるんですね。もちろん、もっと幅広い会話には向いていません。健康と体重は関係ないとか、ボディポジティブとか、もっと他のことを主張したいなら、もっと大きな部屋、たとえばTwitterやFacebookなどに入る必要があります。そこでのルールはかなり違っていて、幅広い表現が容認されています。たとえばRedditなんかは「黙れ、クソデブ」と言うことさえ奨励されていますしね。つまり、小さな部屋と大きな部屋の世界は、コミュニティの選択によって、プラットフォームに非常に厳しい発言制限を課す小さな部屋が存在しうる世界です。そして、大きな部屋では、常に対立があり、モデレーションが必要だという考えのもと、幅広い表現を容認するルールを擁護することになるのでしょう。

このような空間で常に問題になるのは、コミュニティがひどく恐ろしいルールを望んだ場合にどうなるか、ということです。そのコミュニティがKiwiFarms(訳注:4chの分派)で、ルールが“トランスの人を見つけて嫌がらせをすること、可能なら死に至らしめること”だったらどうでしょう。その小さな部屋がStormfront(訳注:ネオナチフォーラム)で、1939年のパーティのように大騒ぎしたら? 私たちは白人至上主義やキリスト教至上主義、反ユダヤ主義、反イスラム主義に再び戻ることになるのでしょうか? あるいは、グループが児童性的虐待資料(CSAM)のやり取りを望む場合、事態はさらに厄介になります。彼らは間違いなくそれをやり取りしますからね。もしくは、許可なく不同意の性的イメージを生成したい場合は? テイラー・スウィフトが決してしたことのない、あるいは少なくとも出回ったことのないイメージを生成したいグループだったらどうでしょう?

私はこの問題をアーキテクチャで解決できないかと考えてきました。私が考えているのは、フレンドリーな近所のアルゴリズムショップを持つことです。フレンドリーな近所のアルゴリズムショップでは、2つのことができます。1つは、自分がコントロールするクライアントを通じて、自分の希望に即したアルゴリズム・セットでソーシャルメディアを閲覧できる。たとえば、「今日は政治の話はいらない」とか、「政治の話はするけど、高度に検証されたニュースだけ」とか、「正直、今日は子犬の写真だけでいい」という具合に、メディアをフィルタリングするアルゴリズムを選べるようになるといいですよね。ただ、フレンドリーな近所のアルゴリズムショップはプラットフォームにもサービスを提供する必要があるとも考えています。そうすれば、一部のプラットフォームは「私たちはこのようなルールを定めていて、この部分はアルゴリズムで、この部分は手動で執行します」と言えるようになるかもしれません。そしておそらく、特定のアルゴリズムはデファクトスタンダードになるでしょう。

今日、既知のCSAMのチェックは、責任あるプラットフォームを運営する上で必要最低限のことだと思います。FacebookなどがCSAMを大規模にスキャンするために作ったツールを、小規模なプラットフォーム運営者にも利用できるようにするれば、おそらく非常に役立つでしょう。Mastodonノードの運営者に強制したいわけではありませんが、こうした基本的な保護策なくしてMastodonノードを運営することはますます難しくなっていくと思います。でも、これもすぐに複雑さに直面します。既知のCSAMデータベースであれ、過激主義やテロリストのコンテンツのデータベースであれ、そのデータベースの中身はレビューできません。ときには、正当な政治的表現までブロックしているかもしれない。だから、それらのデータベースが正しく運用されていることを確認する方法を見出さなければなりません。特にCSAMに関しては、実在の子どもは登場しないものの、画像を組み替えて新しいシナリオを作り出すような、新種の(novel|訳注:“架空の”の意味合いも含む?)CSAM を生成する人が出てきています。率直に言って、これに対してどう対処すべきなのかはわかりません。どのように予測・ブロックすればいいのかもわからなければ、実在の子どもが被害を受けているわけではない画像の一部をブロックすることの法的位置づけさえわからない。

だから、これら(訳注:アーキテクチャ的なアプローチ)は完全な解決策ではありません。でも、多様なコミュニティが運営される以上、コミュニティの健全な運営に必要最低限のモデレーションを実施するアルゴリズムツールキットが、広く利用可能で、そしてその採用が期待されている状況に至ることが重要だと思います。もしそれを採用していなければ、コミュニティを維持し、交流してもらい、相互に協力し合うことはますます難しくなるでしょう。最近は、そうしたことばかりを考えています。

数ヶ月前に「The Three Legged Stool(三本脚のスツール)」という文章を書きました。これは、プルリヴァースなインターネットを実現し、モデレーションとガバナンス可能性(governability)を得るためのマニフェストです。私たちがロイヤル・クライアントと呼ぶものを通じてコントロールを得ること、プラットフォームがこうした機能を実装する能力を持つことからなるアイデアです。その兆候は見られ始めています。「ああ、MastodonはCSAMの巣窟になるぞ」と言う人たちもいますが、正直なところ、私はそうは思いません。それはもっと閉鎖的なチャンネルで起こっている。でも、ユーザー生成コンテンツが実現したその日から見てきたのは、ポルノが投稿されて、そのポルノの一部が公序良俗に反すると見られるということです。そうして、ポルノと法的に禁止された表現との境界が曖昧になっていく。だから、何らかのアーキテクチャ的な解決策が必要なんです。いずれ、こうした技術的・アーキテクチャ的な解決策について考えもせずにノードを実行すれば、非常に無責任だと見られるようになると思いますし、こうした基本的な保護を導入していないサービスは、選択されなくなるのかもしれません。

ヨーク:表現の自由のヒーローはいますか?

面白い質問ですね。多くの人が挙げると思いますが、マリア・レッサです。私にとっての表現の自由の最も重要な役割は、権力者に説明責任を果たさせることです。マリアがフィリピンの「ラップラー」でやっていたのは、独裁が進む政府の行動に責任を取らせることでした。その過程で、彼女は投獄や失業など非常に深刻な事態に直面したのですが、彼女の闘いは、ドゥテルテ政権への国際的な注目をもたらし、報道の自由、表現の自由を守ることの重要性について世界的な対話を開くきっかけとなりました。もちろん、ジャーナリストの表現の自由だけが唯一重要な表現の自由だと言いたいのではありません。どんな表現であれ、その大部分が自由であることは重要だと思います。でも、とりわけ重要だ、とは思っています。そして、現実に力を持ち、現実の結果をもたらした表現の自由は、特に称賛に値すると思います。マリアは他にも、多くの人々を巻き込んで、Facebookや監視資本主義の経済モデルが表現の自由の対話にどのような影響を及ぼしているのかを考えさせました。個人的で個別的な闘いから、グローバルな対話へと昇華させていく力は、信じられないほどパワフルだと思います。

Speaking Freely: Ethan Zuckerman | Electronic Frontier Foundation

Author: EFF (CC BY 3.0 US)
Publication Date: May 21, 2024
Translation: heatwave_p2p

The post 「表現の自由」の名のもとに誰かの表現が抑圧されるなら、それは「自由な表現環境」と言えるのだろうか first appeared on p2ptk[.]org.