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函谷関の戦い、名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

戦国時代の中でも重要な出来事でありながら、一部では「しょぼい」とも言われるこの戦い。

実際、秦がどうやって勝利を収めたのか、その背景にはどんな事情があったのでしょうか?

今回は、深く掘り下げて3つの勝因と「しょぼい」と言われる理由について見ていきたいと思います。

函谷関の戦いはなぜ勝てた?3つの勝因を紹介

紀元前241年、戦国時代も終盤に差し掛かった頃、秦が合従軍を迎え撃った戦いが函谷関の戦いです。

キングダムが注目されていることもあり話題になっているようです。

実はこの戦いには多くの要素が絡み合っており、単純な勝利ではなかったのが分かります。

秦がこの戦いで勝利を収めた理由を3つ挙げて、それぞれを詳しく分析してみたいと思います。

函谷関は地形的に守りやすかった

函谷関と聞いて、まず思い浮かぶのはその戦略的な位置ですよね。

秦の防衛の要であり、長い間「難攻不落」と称されてきた要塞です。

なぜこれほどまでに守りやすい場所だったのでしょうか?それは、函谷関の立地と設計に秘密があります。

函谷関は険しい山々に囲まれており、自然の障壁が敵軍の侵入を防いでいたのです。

道も狭く、山道を登らなければならないため、大軍が一度に進軍することが難しかったのです。

狭い道のりを歩む敵軍は、常に上からの攻撃にさらされるリスクがありました。

合従軍としては、この地形をどう攻略するかが大きな課題だったはずです。

しかも、函谷関の門は堅牢で、少数の兵力でも十分に守ることができる設計になっていたのです。

また、秦の将軍たちはこの地形を最大限に活用しました。

呂不韋さんが全体の指揮を取っていたとも言われていますが、函谷関では蒙驁さんが防御線を敷いていた可能性もあるのです。

このような優れた防御戦略が、合従軍の攻撃をしのぐ力になったのだと思われます。

合従軍の統率力不足

合従軍というと、楚・趙・魏・韓・燕の五国が手を組んだ連合軍ですが、実はその中には様々な不協和音があったのだと考えられます。

各国がそれぞれの思惑で動いており、一枚岩の指揮系統が構築されていなかった点が敗因となった可能性が高いですね。

総指揮官である春申君さんは、楚の名将として知られていますが、合従軍全体をまとめるには至らなかったようです。

特に、趙の龐煖さんが行った別行動は、その象徴的な例でしょう。

彼は函谷関を避けて秦の別の拠点である蕞を攻めるという選択をしましたが、これが失敗に終わり、孤立を恐れて撤退することになったのです。

これにより、合従軍全体の士気は低下し、攻撃の勢いが削がれたのではないでしょうか。

こうした連携の欠如は、戦場では致命的です。

五国の兵たちが同じ目的で戦っているにもかかわらず、それぞれの国が自国の利益を優先して動くことがあったと考えられます。

このため、合従軍の攻撃は統一感を欠き、結果的に秦軍にとってはそれが防御を固めるチャンスになったのではないかと思います。

秦軍の防御戦術がすごかった

秦軍の強さは、やはり戦術面でも際立っていました。

蒙驁さんは過去に魏を破り、東郡を設置するなど多くの功績を挙げてきたベテラン将軍で、今回の戦いでもその戦略眼が光っていたと言えます。

彼は防御に徹しつつも、敵が隙を見せた時には即座に反撃に転じるという巧妙な作戦を展開しました。

また、秦は情報戦にも長けていたと言われます。

敵軍の動きを事前に察知し、それに応じた防御策を講じていたのかもしれません。

さらに、秦はただ守るだけでなく、適宜陽動作戦を行い、合従軍の注意をそらすこともしていたようです。

このような高度な戦術が、秦軍の防御力を一層高めたのだと思われます。

秦軍の防御は、単なる力技ではなく、緻密な計算と計画に基づいて行われていたのです。

このような柔軟かつ計画的な防御戦術が、結果的に秦の勝利を引き寄せたのではないかと考えられます。

函谷関の戦いがしょぼいとの声はなぜ?他の戦との比較から?

一部の人々の間では、「函谷関の戦いはしょぼい」という声も聞かれるようです。

それはなぜなのでしょうか?他の戦と比較した際の見え方が影響しているのかもしれませんね。

戦国時代には、もっと劇的な戦いがいくつもありました。

長平の戦いでは、白起将軍が趙軍を壊滅させる大戦果を挙げました。

このような大規模な壊滅戦と比べると、函谷関の戦いは目立たないと感じる人もいるのでしょう。

また、函谷関の戦い自体も、連合軍が合従して秦を攻める最後の試みとなったにもかかわらず、決定的な結果を生み出すには至りませんでした。

そのため、「大きな変化をもたらす戦いではなかったのでは?」という意見もあるようです。

しかし、函谷関の戦いがもたらした歴史的な意味を考えると、単純に「しょぼい」と片付けるのは少し早計ではないでしょうか。

戦国時代の終焉を象徴するこの戦いで、合従軍は一度は秦に大きなプレッシャーをかけましたが、それを防ぎきった秦の勝利によって、六国の間に秦に対抗する連携が再び生まれることはなかったのです。

こうした点を考えると、函谷関の戦いは歴史的に重要な位置づけを持っていると思います。

函谷関の戦いについておさらい

ここまでで、函谷関の戦いについての勝因や「しょぼい」と言われる理由について詳しく見てきましたが、最後にもう一度、全体の流れをおさらいしておきましょう。

紀元前241年、戦国時代末期の秦と楚・趙・魏・韓・燕の五国連合軍との戦いが、この函谷関の戦いでした。

秦が合従軍を撃退し、その後六国が連合することはなく、戦国時代は終焉へと向かっていくことになりました。

  • 守りやすい地形と設計:山岳地帯に位置し、堅牢な構造で少数でも防衛可能
  • 合従軍の連携不足:それぞれの国の独自行動が全体の統制を乱した
  • 秦軍の巧妙な防御戦術:蒙驁さんらの指揮の下で緻密な防御と反撃を展開

これらの要因が重なり合い、秦の勝利へと繋がったのです。